『ただいま、の記憶』 物語

『ただいま、の記憶』

静かに目を閉じ、私は深く息を吸い込んだ。新鮮な空気が肺の奥まで満ちていき、体の隅々に行き渡る。肩の力が抜け、心が少しずつ静まっていく。「楽に座ってください」その声が、優しく耳の奥に響いていた。

私はそっと意識を時間の流れに預け、記憶の中へと旅を始める。やがて辿り着いたのは、小学生だった頃の私。小学三、四年生の頃、私はどんな毎日を生きていたのだろうか。

ふと現れたのは、懐かしい家の風景だった。今はもう古びた、二階建ての家。小さな庭には雨どいから水が落ちる音が響き、夕立の匂いが鼻をかすめる。風に揺れる洗濯物のタオル、あの頃の空気が記憶の中で鮮やかによみがえった。

私は玄関の前に立ち、少しガタつく取っ手に手をかけ、そっと扉を開ける。木の床が懐かしい音を立て、足元から過去へと導いてくれる。廊下の先からは、母の声が聞こえてくるような気がした。リビングのテーブル、テレビの音、父の咳払い、そして夕飯の匂い、すべてがそこにあった。

私は家の中を歩きながら、子どもの頃に好きだった場所をたどる。ソファーの隅で本を読んでいたあの時間。窓から差し込む夕陽の中、埃がふわふわと舞っていた。

夕食の風景が浮かぶ。新聞を読みながら眉をひそめる父、慌ただしくも私たちを気にかける母、そして、どこか落ち着かない気持ちでテレビを見ながら食事をする私。学校から帰って「ただいま」と言うと、「おかえり」が返ってくる日もあった。でも、誰もいない静かな家にホッとした日もあった。扉を開けたときの、ひんやりとした空気。誰にも気づかれないような寂しさを、私は胸の奥にしまっていた。

私は、あのときの自分に会いに行く。窓辺のソファーに、小さな私が座っている。うつむいたまま、何かを我慢しているような顔だった。そっと隣に座り、私は声をかける。

「ねえ、大丈夫?」

小さな私は驚いた顔をした。でも、やがて小さな声で言った。

「ずっと、ひとりだと思ってた。」

その言葉は、心の奥深くまで沁み渡った。私はその子の肩にそっと手を置いて、優しく語りかける。

「でも、あなたは今ここにいる。私はちゃんと覚えてる。ひとりじゃなかったよ。私が、ずっとここにいたよ。」

小さな私は、少しだけ微笑んだ。

その笑顔を胸に抱きながら、私は大きく三回、深呼吸をする。そして、ゆっくりと目を開ける。

今、私の中には、あの家と、あの頃の私、そして今の私が、静かに、確かに、共に生きている。



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